日本禁煙科学会

日本禁煙科学会 創立一周年 理事長挨拶

 平成18年5月27日設立された日本禁煙科学会も、多くのみなさまの参画・支援を頂きまして、ここに創立一周年を迎えることができました。心より篤く御礼申し上げます。
 創立一周年にあたっての吉田理事長のメッセージです。なお、本論は日本禁煙科学会が2007年秋発刊予定の禁煙科学に基づく禁煙治療・支援マニュアル(文光堂)に収録される予定です。
                                   平成19年(2007年)5月
                                   日本禁煙科学会 事務局

禁煙科学の考え方

理事長




日本禁煙科学会理事長  吉田 修
(奈良県立医科大学学長)

 タバコのないクリーンな環境と健康な社会を実現し、人類の福祉向上に貢献するにはいろいろなアプローチが必要である。医療従事者が日常の診療で患者の禁煙を支援するのも、子供たちに「その生涯を左右するような《喫煙という悪い習慣》を身に付けないように、というよりは《タバコ病に罹らない》ように」に教えるのも、或いは政治的に国の行政に働きかけるのも、いずれもわれわれの目的達成のために必要なアプローチである。そして、多くの人が自分にできるアプローチでそれぞれが理想とする《タバコのない社会》実現に向かって取り組んでいる。その取り組みにおいて不可欠のもの、基本となる存在が禁煙科学であると考えているが、その点について概説しておきたい。

「禁煙科学」はサイエンスとアートとヒュウマニティからなる

 アメリカ近代医学発展の礎を築いたウイリアム・オスラーは、「医学はサイエンスとアートとヒュウマニティからなる」と教え、実践躬行した人である。オスラーの言葉の中の「医学」を「禁煙科学」に置き換えてみればわれわれが目指す「禁煙科学」になるといってもよい。

 禁煙科学は Smoking Control Scienceである。Science・科学は体系的であり、実証が可能でなくてはならない。科学は狭義には自然科学を指すが、経済学・法学などの社会科学、心理学などの人間科学もサイエンスである。禁煙科学も自然科学のみでなく社会科学的要素も人間科学的要素含んだ幅広いものと考える。

 ケンブリッジ大学の学長を務めたE.アシュビーは科学の社会的機能について「科学と反科学」の中で、「人類のおかれた現在の状況は、いくらかの科学者は科学の枠外にでて科学と社会の相互作用に働きかけるように求めている」と述べているが、現代は当時よりもさらに科学がもっと社会寄りになることを求めている。

 2007年12月に京都で開かれた本学会の設立総会で特別講演をしたプルシャスカは「Population Treatment for Smoking Control」で、「Tobacco controlの中で禁煙治療は重要な部分を占めていないのはそれがpopulationをbaseにしたものではなかったからだ。すなわち喫煙者全てに適用できる方法がなかったからだ」と述べ、行動科学に基づいたTranstheoretical Modelを紹介し、その実績を発表した。これはまさに科学であり、それに基づいた治療はアートといえるまでに高めることができる。

 ニコチン依存症、たばこ病の治療にはこのアートが必要である。最近の厚生労働省の実態調査で、2006年4月から医療保険の適用対象となったニコチン依存症の治療について、患者の約4割が治療後3ヶ月たっても禁煙をつづけられていることが明らかになった。関係者の多くは「ほぼ期待通りの効果」としている、はたしてこの程度の治療成績で禁煙支援、たばこ病治療がアートにまで高まったといえるであろうか?

 人類の福祉を考え、無限の可能性を有する子供たちの未来を思うヒュウマニティ、思い遣りのこころが必要であることは申すまでもない。医療倫理、生命倫理の基礎的基盤になっているヒュウマニティ、禁煙科学はこの三者が統合された体系でなくてはならないといえる。

禁煙科学

 われわれの目的はタバコのないクリーンな環境と健康な社会の実現であるが、そのための科学的なアプローチはすべて禁煙科学に含まれる。

 「禁煙科学」に具体性をもたせるために、いまここで大学医学部ないし医科大学に「禁煙科学講座」を新設するとしたら、どのようなことが期待されまた可能かを考えてみよう。 禁煙科学の臨床的な役割としては何といっても禁煙外来を中心としたタバコ病の治療である。循環器内科、呼吸器内科との連携は不可欠であり、外科系の診療科との連携も術後合併症という観点から、そのニーズは大きなものがある。たとえばイギリスの地域保健サービスはNHS(National Health Service)の予算を管理するプライマリー・ケア・トラスト(公営企業体的組織)が行うが、そのうちの一つのトラストが喫煙者は手術の待機リストから除外するという提案をしたほどである。

 入院した患者はすべてが非喫煙者になるように指導することも重要な役割である。心筋梗塞でICUないしCCUに入院して治療を受け、退院時帰りのタクシーのなかでタバコを吸って再発、そのまま病院にUターンしたというような笑えない現実もあることを忘れてはならない。呼吸器疾患は肺癌に限ったことではない。肺気腫の治療上禁煙は不可欠である。

 手術のため入院した患者の禁煙は必須である。癌、糖尿病の治療の上で禁煙は重要であるが、メタボリックシンドロームをはじめとして生活習慣病の治療と予防が社会的な課題となっているが、これらの疾患の治療と予防においても禁煙は欠かすことができない。精神科境域の治療における禁煙は進んでいない。精神科病棟に喫煙室をおいている総合病院も少なくない。鬱病の患者に禁煙させると病状が増悪するというが、科学的根拠があってのことではない?産婦人科との協力も重要であり、次世代へのタバコの弊害はいくら強調してもしすぎることはない。全人的医療holistic medicineを行う上で、禁煙は常に考えねばならないことである。

 医学生ないしは看護学生に対する禁煙科学の教育は極めて重要で、カリキュラムの中に取り入れねばならない。それだけではなく我が国の医療従事者への禁煙支援のための教育・研修も重要な役割となる。

 研究の面では実に多くの課題が考えられる。疫学による喫煙の弊害についての科学的に研究することは不可欠である。また薬物依存症の一つであるニコチン依存症についての基礎的研究が必要で、ニコチン依存の起こる仕組みの解明、ニコチンのシナップス、神経伝達物質への影響など研究することになろう。癌の原因としての喫煙の研究は可成り進んでいるが、殆どが器官別の研究で横断的なものが少ないように思われる。横断的な癌研究部門がどうしても必要である。

 アメリカでは1980年以降、不健康なライフスタイルの根底となる行動そのものを変化させるために行動科学が誕生し、喫煙者が禁煙に成功することが多くなったといわれている。それまでは、喫煙が多くの疾患の罹患率を高めるという科学的根拠があるにも拘わらず喫煙率が減少しないという状態が続いた。行動科学に基づいた禁煙支援も大きな研究部門となるであろう。

 禁煙科学の概要について述べたが、今後叡智をあつめ、禁煙科学を体系化し、目的達成のための弛まざる努力を続けねばならない。